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1368年から1372年にかけてのモスクワ・リトアニア戦争ではリトアニア大公アルギルダスによる1368年、1370年及び1372年に行われたモスクワ大公国への遠征並びにそれに附随し形で行われた幾つかの戦闘について解説する。『ロゴジスキイ年代記』はアルギルダスによる一連の遠征について «Литовщина»という表現を用いている。 == 開戦までの経緯 == 1367年のトヴェリ大公国では ミクリン公ミハイル・アレクサンドロヴィチとカシン公ヴァシーリー・ミハイロヴィチとの間で領土上の問題を巡って紛糾していた。ヴァシーリーの息子であるミハイルがモスクワ大公セミョーン高慢公の娘と結婚していたことから〔Все монархии мира 〕カシン側には同大公国(当時の名目上の支配者はドミトリー・イヴァノヴィチ(後のドミートリー・ドンスコイ)であったが実質的な統治者はキエフ並びに全ルーシの府主教アレクシーであった)が付いた。他方、ミクリン側にはミハイルの姉妹ユリアナと結婚していたリトアニア大公アルギルダスが付いた。ミハイルがアルギルダスのもとへ出立したその時にヴァシーリー、ミハイル親子がドロゴブシ公エレメイとモスクワの軍を引き連れてトヴェリに攻め寄せて同都市を包囲した。トヴェリは陥落こそ免れたもののヴォルガ川右岸一帯が略奪された。ミハイルはリトアニアの軍勢を伴って帰還してエレメイ軍を撃破してカシンに攻め寄せたもののトヴェリ司教ヴァシーリーの説得により撤退した。 1368年にドミトリー・イヴァノヴィチはミハイルをモスクワに召還し、アレクシー府主教はその身の安全を保証はした。だが、ミハイルに対して行われた仲裁裁判によって身柄を拘束されて監禁下に置かれることとなったのである。思いもがけずモスクワに到来した3人のタタール貴族によってミハイルは辛くも窮地を脱することができた。解放されたミハイルであったがトヴェリには戻らずに義兄弟のアルギルダスが統治するリトアニアに亡命した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「モスクワ・リトアニア戦争 (1368年-1372年)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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